次に読む本が決まらないことがある。というか、最近それが常態化していて、読みかけの本がないときは、常にそれに怯えていると言って良い。
実家でテレワークをしているときは通勤にかかる時間がないので、読む本が決まっていなくても困ることはない。だが、実家から仕事場までは電車に乗っている時間だけでも1時間20分以上あるので、その間に読む本が決まっていないと落ち着かない気分になる。鞄に入る本には限りがあるからである。
昔からそういうことはたびたびあったが、最近は特にひどくなったと感じる。その理由についてもなんとなく思い当たる節がある。どういうことか説明しよう。
数年前、定年を迎える少し前だったと思うが、もうこれからは読み終わらない限り次の本を買わないことにしよう、と決めたことがあった。
本屋に行けばなにかしら買ってしまうのは若い頃からの悪癖だった。だが、本屋自体に行く習慣がなくなっていたので、本を買うことも稀になっていた。それが、土日に実家に帰るようになってしばらくすると、家に母と二人でいても退屈なので、本屋に行く習慣が復活した。
そうなると、しばらく行かなかった本屋には目新しい本がいくらでもあり、必然的にあれもほしいこれもほしい、となって、行くたびに数千円も使うようになってしまった。今どきの本は文庫でも高いので、数千円といってもせいぜい3冊か4冊だが、わたしが買う本は娯楽小説ではないので、1週間で4冊読むのはまず不可能である。だが、1週間たてばまた本屋に行くから、また3、4冊買い込む。
そのうちに、さすがに定年も近づき、残りの人生で読める本はあと何冊だろうと気になりはじめたのである。学生時代には、いつか読むのだからと思ってせっせと本を買い込んだ時期もあったが、年齢から考えて、生涯読めないであろう本を買っても単なる無駄だと改めて気が付いて、買うのは常に1冊だけにし、それを読み終わるまでは次は買わない、と決めたのだった。
だが、初めのころはそれでけっこううまく行っていたのだが、特にこの1年ばかりの間に、知人が相次いで亡くなり、もうすぐ自分も死ぬのならもう読めないのだから買わないことにしよう、と理論的にはなるはずだが、そうはならなくて、今すぐ買わないと買わないうちに死んでしまうという焦りがでてきたのだった。本屋で本を手に取った時に、ふと亡くなった親友の顔が思い出されてきて、「そうか、あいつはもうこの本を読むことはないのだな」と考え、そうならないうちにさっさと買っておこう、と思うようになってしまったのである。
物理的に読める本の数は限られているし、買える本の数も限られている。若い頃と違って徹夜で何冊もぶっ続けに読書するなんて不可能であるから、今読んでいる本があり、次に読む本があり、その先数冊分のストックがあればそれで十分なはずである。わたしも理性ではそれを十分に理解しているのだが、変な欲望が横から顔を出して、早く集めろ、今すぐ買ってこい、とわたしを急かすのである。
これは、若い頃の性急な知識欲のせいで落ち着いて読書ができない状態に似ているのではないか、とわたしは思った。そんな状態では結局なにひとつ身につかずに終わることは、もう十分すぎるほどわかっている。だから、自分でもそう自分を説得しようとするのだが、この欲望というやつはなかなか理性の言うことを聞いてくれない。
本を買うだけなら、書斎に本があふれるだけで、大した実害はない。ところが、その焦りが、読書自体にまで及び、次に読む本を決められなくなってしまった。月に数冊しか本を買わない数年前の状況では、読書はかなり計画的に進んでいたので、1冊読み終われば次に読む本は決まっていて、迷うことなどほとんどなかった。せいぜい2冊あるうちのどちらを先にしようか迷う程度だったのである。
ところが、今読まないと死んでしまうという焦りのせいで、次に読む本を決めておくことができなくなってしまったのである。正直に言うと、それは今読んで結果を出さないといけないという焦りである。なんの結果を出すのか、実は自分でもよくわかっていないのだが、次に読む本を決めるときに、こっちの方が面白そうと思うより、こっちのほうがより重要だと考える自分がいるのにいつも気が付くのである。
そして、どっちが重要かを考えだすと背後から、「いまさら本など読んでいる歳じゃないぞ、今までの蓄積でさっさと結果をだなさいといけないぞ」という声が聞こえてきて、ハッと気づいて、純粋に面白そうだと思うほうを選び直すのである。
もっとも、これは単純に、興味のある本が見つからない状態が続いているだけかもしれないとは思う。本当に読みたい本があるときには、それを鞄に放り込むのに何の迷いもないのだから。