ハイデルベルクに行くことになったとき、同じ研究室の女性から、彼女の親しい研究者仲間のK先生がハイデルベルク大学に留学中だといって連絡先を教えられた。1997年のことである。東欧の公衆浴場についての新書を出版されたばかりで、奥さんと幼稚園の娘さんの三人でハイデルベルクの街中の一軒家を借りて住んでいるということだった。
K先生に実際に会って話を聞くと、その四月から一年間の予定で来ており、当初の予定では三月に完成する大学のゲストハウスに入居するつもりが、できていなかったので民家を借りることになったということだった。だが、偶然にもその民家には浴槽がついていたので重宝していると話していた。大学のゲストハウスには浴槽のある部屋はひとつもなく、そもそもドイツでは浴槽は一般的ではないのだった。
完成したばかりの大学のゲストハウスは、わたしたち一家がおそらく最初の入居者だった。九月にやっと建物ができあがって開所式をしたものの、ほとんどの部屋の内装が未着工の状態で、入居予定の部屋も未完成だったので、わたしたちも最初の1ヶ月は民家に間借りせざるを得なかった。わたしたちが間借りしたのは、ハイデルベルクから東の方にいくバスの終点があるツィーゲルハウゼンの家だった。大家のご主人は警察官で、山のてっぺんにあるその家は、まだ完成しておらず、そのための費用が必要なので、間貸ししているのだ、と奥さんは話していた。部屋にはもちろんシャワーしかついていなかった。
K先生は穏やかな先生だったが、奥さんは、子供にしばられない生活がしたいのだ、と言って、やんわりと、わたしたち家族と関係をもつことを断ってきた。娘さんにも会わせてもらえなかった。幼稚園に行っていて不在ということだった。
実は、最初に訪問するはずだった日に、住所がよくわからず、ずっと先まで行ってしまい、たまたまかなり寒い日だったので、このままでは子供が身体を壊すのではないかと心配になって、訪問を諦めて引き返したのだった。夜にお詫びの電話をして翌日また出かけたが、その時ドイツでは地番が奇数と偶数で道の両側に振り分けられていることを知った。
わかれば極めて単純で、見つからないのは何かの言い訳と取られてもしかたなかった。子供の健康云々も、その後のドイツの寒さを知っていれば、笑い話にしかならないていどのものだった。だが、わたしたちは、見渡す限り誰一人歩いていない一本道で、今のように携帯のない時代だったから、本気で心配になったのだった。
もっとも、わたしは既に最初の電話とお詫びの電話で二回話しており、相手が初めから明らかに迷惑がっていることを声の調子で敏感に感じ取っていたのかもしれなかった、とは思う。大学のゲストハウスの電話の音質はかなり悪かったが、そういうことは母語での会話ならかなり明瞭に察せられるものではあるのだろう。それとも、勝ち組に対する強い劣等感がわたしにあり、紹介してくれた女性もK先生も勝ち組の最たるものだったことが関係していたのだろうか。だが、そもそも勝ち組っていったいなんだろう?
K先生一家とは、それ以後二度と会うことはなかった。ただ、そのとき、彼の奥さんが大学の裏手にある動物園(Zoo Heidelberg)によく行くと話していて、勧められたので妻と子供はときどき動物園に行くようになった(いちどだけ、K先生の奥さんに会った、と妻が言ったことがある。忙しそうで、こちらに気づかず足早に立ち去っていったということだった)。
後にわたしと入れ替わりにハイデルベルクにやってきた母も子供と毎日のように動物園に散歩したらしく、いまでも子供の話になるとまっさきに動物園の話をするのである。
わたしは、動物園には結局一度も行かずじまいだった。