7月初旬のある日、いつものように昼飯を母と食べていると、突然、修善寺温泉に小学生のころ毎年のように行った話を始めた。どうやら、前日に熱海で起きた土石流のニュースを見ていて思い出したようである。
母の母、つまりわたしの祖母は、戦後すぐに腎盂炎になり、その後毎年のように修善寺温泉に湯治に行った。母は小学生だったので一緒についていき、その間は祖父がひとりで店番をした。もっとも、当時は女中さんもいたので、祖父がまったく一人で家に放っておかれたわけではなかった。
湯治はいつも1週間で、いきつけの旅館があり、そこには母と同じ年頃の娘さんがいたので、一緒に遊ぶのが常だった。近くに川があって、その中に温泉が湧きだしているところがあり、いつ行ってもお爺さんがひとりで湯につかっていた。娘さんに聞くと、いつもいるのだと答えた。馬の湯治場もあり、専属の獣医さんがいて馬の温泉治療を行っていた。
行きは三島から入り、帰りは西伊豆から沼津を経由して帰ってきた。戦争が終わってすぐのことで、東海道線に乗っていると、途中の駅のプラットフォームに「かつらひ」という駅名が見えたという。
祖母は、もともと身体が強いほうではなかったが、ある日食事をしている最中に、突然気を失って食卓に突っ伏してしまったのだった。腎盂炎と診断され、東大の年寄りの先生と、慶応の若い先生が交互に往診してきた。東大の先生は、茅ヶ崎の自宅から病院に行く途中で寄り道していき、慶応の先生は横浜に住んでいたのだが、わざわざ来てくれたという。薬はいつも慶応の若い先生のほうが持ってきたが、処方箋は東大の先生が書いていた、と母は言った。
東大の先生が、精力をつけるために、毎日、卵、牛乳、ほうれん草、そしてニンジンを食べるように言ったので、それを実行した。だが、当時牛乳はそんな簡単には入手できず、家から2キロほどのところにあった乳牛を飼っている農家に毎朝取りに行かなければならなかった。時には、牛乳が入手できずに、山羊乳のこともあったという。
それだけでなく、これはお医者様方の処方ではないように思うのだが、マムシ酒を飲み、コイとニワトリの生き血を飲み、彼岸花の根をすりおろして土踏まずに塗ったりもしたという。コイの首を切ってもそれだけだが、ニワトリは飛ばされた首が鳴くので気持ち悪かった、と母は言うのだった。