週二回、出勤するようになると、毎朝の散歩でかえって疲れがたまるようになった。最初はそうでもなかったが、だんだん、歩くこと自体がつらくなってきて、なんでこんなに疲れているんだろう、と考えているうちに、週二回の出勤に加えて、週五日の散歩が負担になっているのだと気が付いた。
週末だけ実家に帰っていた頃は、土日はまったく動かないことが多く、それでバランスが取れていたのだが、四月以降、テレワークでずっと実家にいるうちに体重がどんどん増えてきた。それで、それを解消するために、七月からは、一日も休まずに週七日の散歩を心がけるようになった。
朝の散歩だけなら良かったのだが、そのうちコロナの新規患者数も減少してきたので、週二日を片道二時間の職場での勤務に戻した。でも散歩は続けていたので、週二日の往復四時間の通勤に加えて週五日の毎朝一万歩の散歩で、身体の休まる日がなくなっていたのである。
幸い、歩ける日はせっせと散歩した七月と八月の二カ月間で体重も緊急事態宣言前のレベルに戻ったので、九月からは土日の散歩は中止してゆっくり休むことにした。
そのようなわけで、九月十二日(土)の朝も散歩はせずにずっと眠りこけていたのだが、翌十三日(日)の朝はいったん、いつもなら散歩に出かける四時半にトイレに起きて、それからすぐにまた二階の寝床にもぐりこんだのだった。そのまま寝過して、気が付くともう六時を過ぎていた。いつもなら散歩から帰ってきて朝食もとっくに終わっている時間である。
少し寝過したな、と思いながら台所に降りていくと、なんだか様子がおかしかった。というのは、いつもなら母が朝食を食べているか新聞を読んでいるはずなのに、どこにも姿が見えなかったのである。散歩に行ったにしてもいつも六時前には帰ってきている。いったいどうしたんだろう、と思いながら玄関の方へ歩いていくと、サンバイザーをかぶった母が思いつめた顔をして外から戻ってきたところだった。
「ああよかった。どうしちゃったかと思った。川に落ちたのかと思ったじゃない」と顔を見るなり、母はうろたえた様子でわたしに言った。
なんのことかと思いきや、四時半に散歩にでかけた(はずの)わたしが六時を過ぎても帰ってこないので、探しに行ったというのである。
「今日は散歩行ってないよ。鍵、閉まってたでしょ?」とわたしが言うと、
「そうだった? そんなの気付かなかったわよ」と母は言う。
「靴もあるし、そもそも二階で寝てるんだから、ちょっと見に来ればよかったのに」
「帰ってこないと思ったから、そんなこと思いもしなかった。川に落ちたんじゃないかって、心配で、心配で。天神様のところまで行ってみたの」
(ついに母がボケてしまった?)と、その瞬間わたしは思った。
(いくらなんでも、特に脚が悪いわけでもない人間が、ふつうに川の土手を歩いていて川に転落するわけないではないか)
天神様というのは、いつも散歩に行く川沿いの道のそばにある古い神社である。話を聞くうちに、どうやら母の記憶にあるH川は、その昔子供が溺れたころのイメージのままであるらしいことがわかった。だが、その昔にも、わたしは友達とザリガニを取ったりしていたのだし、台風でも来ない限り、特に危険な川という認識はなかった。
子供が溺れたのは事実だが、なんであの川で溺れることができるのか、というのが中学生だったわたしの正直な感想だったのである。どこにでもある、その辺の田んぼ沿いを流れている小川に過ぎなかった。
だが、母の認識は違っていたということなのだった。
もっとも、実はそれは予想されたことではあった。だからこそ、いつも散歩の時間には十分に気をつけていたのである。散歩から帰ってくる時間が十分以上ずれるとなにが起きるかわからないと、ずっと思っていたのは事実であり、そうならないようにかなり気を使っていたのである。杞憂だろうとは思いながらも、実際一度十分ほど帰りが遅くなっただけで、ひどく心配されたことが、ほんの数週間前にもあったばかりだった。
とはいうものの、土日に散歩に行かなくなってすでに三週目ではあったし、さすがにもう大丈夫だろうと思って油断した。はっきり言ったわけではなかったが、母は、わたしが土日は散歩に行かないことを認識したと思っていた。だがそれが失敗だったのだ。
はからずも、わたしの勝手な思い込みではなかったことが証明されてしまった、というわけなのだった。明らかに母の認知能力は急速に衰えているのである。ただの妄想ではなかったことが証明されたのは喜ばしいことだとも言えたが、わたしはぜんぜんうれしくなかった。ひたすら憂鬱であった。
※こちらの記事は、2020年9月28日にながさごだいすけ氏によって、note上にて公開されたエッセイになります。