今日は、久しぶりのコーラス会ということで、母は二、三日前から機嫌が悪い。悪いというほど悪いわけではないのだが、昨日は夕方、居間に下りていくと、「あなたが二階を歩くとミシミシ、床が抜けそうな音がするの。本のせいじゃないかしら」と言われた。ちょうど雨が微妙な感じで降っていて、その音と勘違いしたのかもしれないと思ったが、面倒くさいので黙っていた。
本で二階の床が抜けるというのは、数年前からときどき思い出したように母に言われるお小言のひとつである。八畳の部屋に分散して置かれているわずか六百冊ほどの文庫本で、木造二階建ての床が抜けるとは思えないのだが(六千冊なら可能性はあるだろう)、母は新型コロナのせいで、ときどき不安感がひどく増すことがあり、特に緊張が高まるイベント(例えばコーラス会)の前後にひどくなるので、そのためだろうと思った。
わたしは昔から、本を買うのが趣味なので、実家には本があふれている。妻が本を嫌うので、引っ越しのたびにほとんどの本を実家に送っており、それが家のあちこちに溜まっているのである。父が亡くなって実家に定期的に帰るようになり、それ以降少しずつ整理してきたが、やはり土日だけではあまりはかどらず、そもそも、必要性が低いから実家に送りっぱなしになっていたものが大半なので、結局ほぼそのまま放置されていた。
ところが、昨年緊急事態宣言で、ずっと実家に籠ってテレワークをするようになり、逆に家から出られずに暇を持て余した結果、次第に古い本の記憶がよみがえってきた。本はそこにあるのだし、それらは買ったときには興味があったものが多い。しかも、本好きの宿命として(と自分で言ってしまうが)買った本のほとんどは読んでいないのである。中学時代から50年に及ぶ蔵書の大半は、最近のわたしの興味とはまるで関係ないものが多かったが、なんといっても一日中家の中にいて、気晴らしと言えばTVしかなく、手持ち無沙汰に古い本を見ていると、徐々に昔の興味が思い出されてきて、それと共に、その興味にまつわる一連の書籍のあれこれも思い出すようになった。
引っ越しのたびに実家に送った、と書いたが、引っ越しは結婚してからでも7回している。愛読書や必要な本は、そのたびに淘汰されて小さな本箱に収まり、今に至っているが、それ以外の大半の本は整理するのも面倒で、段ボールに入ったままになっているものも多かった。それらは送られてきたまま、実家のいくつかの部屋の片隅に山積みになっている。年代が新しくなるほどその傾向が高いのは、体力が低下したせいもあるが、むしろ忙しくてその余裕がなかったというほうが当たっている。二十代の終わりに大阪から実家に帰ってきたときの書籍がすべて本棚に収められているのは、独身で暇でありなおかつ実家に住んでいたからだ。その6年後に宮崎から実家に送った書籍のほとんどが段ボールに入ったままなのは、結婚直後でもう実家には住んでいなかったからである。
次第に、本にまつわるあれやこれやの興味のことをはっきり思い出してくると、不思議なことに、埃にまみれて茶色く変色した汚い古本が、あまり気にならなくなってきた。
わたしは古本屋には、ほとんど行かない。古くて汚れた本があまり好きではないからである。それは自分が所有している本についても同様だから、表紙のパラフィンが光で変性してボロボロと剥げ落ちるようになった岩波文庫など、触りたくもなかった。だから古い本棚の本を見返すことはほとんどなかったのだが、昔の興味を思い出してくると、次から次に興味の連鎖がよみがえってきて、そういえばあの本があったはず、この本の元ネタはたしか持っていた、と物置同然になっている古い書庫の変色した文庫本をひっくり返して探すようになった。そうなると、パラフィンがポロポロ落ちてきても大して気にならなくなった。
そうするうちに、再び興味を持った本はどうしても手近に置くことになるので、次第に二階の仕事部屋に古い本が溜まるようになった。読んだことのある本をなつかしさから持ってくる。その際目を惹いた本を読むつもりで持ってくる。なにかの折に思い出した未読の参考書を探して持ってくる。どれも、実際には読まないのである。だから、持ってきただけで溜まっていく。仕事で職場から持ち帰った本は、仕事に使うのでそのまま仕事部屋に溜まっていく。そうして、二階の仕事部屋にはどんどん本が溜まっていったのである。
とはいっても、それらすべてを合わせても千冊を超えたことはないと思う。書庫にある父が買ったエンサイクロペディア・アメリカーナ30分冊揃いのほうが重いくらいである。したがって、床が抜けるという母の小言が、言い過ぎなのは明らかであり、そのたびに一応反論してはみるのだが、母は理論的に、重量〇〇kgを木造家屋の床は支えきれないので危険である、と言っているわけではなく、わたしが二階を歩くときに家が揺れたとか、天井がきしむ音がした、ということが根拠になっているだけなので、まともには反論のしようがない。いつでもわたしが二階を歩くたびに家が揺れたり天井が軋んだりするのであれば問題だが、そういうことではないからである。
理論的に考えれば、本棚1箱分の本を置いて床が抜けそうだという家にはそもそも住むことができないだろうと思う。文庫本1冊の重さが仮に150gだったとすると、1000冊なら150kgということで、少し太めの男性二人に相当する。ネットで調べると木造家屋の二階の床は、1平米あたり180kgの積載重量を基準に作られるそうである。ちなみに、テレワークに使っている部屋には、その昔ヤマハのアップライトピアノが置いてあった(妹が結婚して持っていってしまった。確かに妹のために購入されたものだが、実際に使っていたのはわたしだけだったのに)。ピアノは200kg以上あるらしいので、それを考えると、やはり母の心配は杞憂に過ぎないことがわかる。ピアノに箪笥、大きめのソファーベッド、本箱3つがひとつの部屋に同時に置かれていたこともあったのである。確かにそれから50年近く過ぎて、家がさらに老朽化しているのは事実なのであるが、それにしても文庫本600冊は重量としてはまるでとるに足らない重さなのである。
とはいうものの、母の小言を聞かされるのは憂鬱であるし、それを解消するためには、母が二階のわたしの部屋を見て、床が抜けそうだなどと考えなくなることが必要なのであるから、わたしはさっそく本を三分の一ほど書庫に移動させるとともに、あまり本が置かれていないように見えるようにレイアウトを変更したのだった。残った本を実際に数えてみると452冊あり、実質的には大して減っていないのだが、一見したところかなり減ったようにレイアウトすることができたので、しばらく様子をみて、母がなにもいわなくなれば成功である。
(この原稿をここまで書いたとき、母が昼食の支度ができたと言いに来た。嘘のような偶然だが、事実である。母は、部屋の本が積まれてあったあたりを手でさらうようにしながら、「あら、このあたり、ずいぶんすっきりした!」と言って去っていった。まずは成功というところか。)