高校時代、文芸部にいたこともあり、小説を書こうと思い立ったが、実は文学(特に日本文学)というものをほとんど読んだことがなかった。SF小説や怪奇幻想小説の類が好きだったので、その手の翻訳物は、結構読んでいたから、それをお手本にしようと思った。中でも好きだったのが、カート・ヴォネガットJrとリチャード・ブローティガンという米国の作家の作品だった。
他にも、ドストエフスキーの長編はいくつか読んだことがあったし、フランソワーズ・サガンやボリス・ヴィアン、レイ・ブラッドベリなど、翻訳されているものをすべて集めるほどお気に入りの作家はいたが、手本にできるとは思えなかったのである。
というと誤解されそうだが、ヴォネガットとブローティガンの小説は、どちらも、特に70年代当時は、細切れのエピソードをつなぎ合わせて長編小説を作っている、という印象が強く、特にドストエフスキーのように、ひとつの場面を何十頁もかけて描き出す小説に比べると、真似し易いように思えたのだった。
もちろんそれは単純な錯覚であった。空白で区切られているからといって、かならずしもバラバラのエピソードが並んでいるわけではない。エピソードの切り替えに自由度が増すとか、長々とした描写をしないので必然的に内面描写よりも行動の記述が多くなる、といった特徴はあったかもしれないが、極端な話、ただパラグラフの間に空白行を入れたり文頭に矢印を入れただけで、普通の小説とまったく同じということだってあり得た。
ただ、わたしは別にそんなに明確に考えていたわけではないのだが、そこには単純な外見以上に、従来の小説にないものがあるような気がしていたのかもしれない。形式ではなくて、その小説としての新しさに惹かれていたのだ、とか。今更だけど。
たとえば、ヴォネガットの『スローターハウス5』は、作者の戦争体験を書いた自伝的小説なのだが、トラルファマドール星人の世界観でけいれん的時間旅行者のことを書いた小説でもあった。作者は、独特のニヒリズムで、自らの悲惨な戦争体験を、コミカルなSFに仕立てていた。
ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』は一応長編小説ということになっていたが、作者と思しき主人公が鱒釣りにまつわる思い出をランダムに記述した連作短編集にしか見えなかった。各々がほぼ完全に独立した短編なのだが、全体は鱒釣りという主題によってゆるやかにつながっていて、全体としての統一感が醸し出されている。ブローティガンには『芝生の復讐』という短編集もあるが、それに比べるとやはり『アメリカの鱒釣り』は短編集ではなく、長編小説なのだった。読者は、そのただ鱒釣りをすることに絡めて描かれる作者の人生の片鱗を垣間見るだけなのだが、そこには時代の空気が明らかに流れていた。
どちらも、それまでの小説にはなかった新しさを感じた。これがこれからの小説の形だと、そのときはっきり考えたかどうかは記憶が定かではないが、そういうものを自分でも作りたいと思ったのは多分わたしひとりではなかったと思う。
もっとも、結論からいえば、この試みは完全に挫折した。文芸部の部誌に書いた小説は、ヴォネガットやブローティガンとは似ても似つかないものになった。実は、実家で高校時代の件の部誌を発見したのである。初めは懐かしさに読み始めたのだが、すぐに顔から火が噴き出し、床を転げ回って全身を掻き毟りたくなるような気持ちになったが、なんとか読み終えた。
形式は確かにヴォネガットやブローティガンの模倣だったが、いかんせん精神的におさな過ぎた。あれを全校生徒に配ったなんて、死ぬほど恥ずかしい。これ以上の黒歴史は滅多にないだろう。今からでも取り消せるなら、取り消してもらえないだろうか、ねえ神様。