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桜の枝が折れた話(5)

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悲劇が起きたのは翌日の昼前のことだった。

朝から再び作業に現れた庭師を見て、わたしが母に「まだやることがあるんだね」と言うと、「そうよ、こっち側(と家に近いほうを示しながら)の折れた枝が残ってるじゃない」と母は答えた。

わたしが、ベランダに出て確認すると、確かにベランダのすぐ近くの部分でかなり昔に折れたと思われる枝が、妙な具合にねじれて枝を伸ばしているのが見えた。庭師は、その周辺を慎重に切っているようにみえた。さすが庭師だけあって仕事が丁寧だ、となんとなく思いながらわたしはテレワークのために二階の仕事部屋に戻った。

昼食の時間になった。いつものように昼食に台所に下りていく前に、わたしはふと好奇心を起こして、ベランダに出て見た。そして、なにが起こったのかわからずに、一瞬呆然としてしまった。目の前の桜がなくなっていたのだった。いや、正確に言えば桜はあった。ただ、二階の屋根より高い部分の幹や枝はすべて同じ高さできれいに切り揃えられていて、それより低い部分の枝も、二センチ以上の太さの枝はみごとに切り下されてしまっていたのである。それで初めて三本も長い梯子が必要だったわけがわかったのだった。一瞬、桜が枯れ木になったような印象をわたしは受けた。というか、朝まであった多すぎるほどの葉が、ほとんどなくなっていたのだから、実際、枯れ木も同然の姿に変貌していたのである。

もちろん、隣家に出入りの業者なのだから、プロの庭師であることは間違いない。年季も入っており、かってがわからず切り過ぎるなんてことはありえない。だが、それにしては、どう考えても切り過ぎではないか、とわたしは思った。これはなにかの陰謀ではないのか、利害が相反する隣家に頼んだのは間違いだったのではないか、と自分の判断を悔やんだ。きっと、隣家の主人は、大きすぎる我が家の桜が目障りで、機会があればどうにかしてやろうと画策していたのに違いない。そこまででなくても、庭師は当然なじみの家に肩をもつだろうから、離れとはいえ、そこに影をおとす枝は100%落としてしまわないと気が済まなかったのだ。そんな風な考えが頭をよぎった。

なによりも、母のことが心配になった。母だって、いくら何でも、ここまできれいさっぱり枝を落としてほしいと思っていたわけではないはずで、ただ折れた部分をきれいにしてくれればそれで十分だったはずなのだ。

わたしは恐る恐る階下に降りていった。そして母に、桜はずいぶんさっぱりしたね、というと、母は意外にあっさりしていて、日当たりが良くなってよかったわね、と言った。だが、わたしにはわかっていた。母は、自分の間違いを絶対に認めない性格なのである。たとえどんなことになろうとも、それを頼んだのが自分である限り、結果はすべてOKなのである。

翌日、他の木もすべてきれいさっぱり剪定された。桜のことは何も言わなかった母も、サカキについては、お隣にはみ出しているところだけでよかったのに、と言い、ヤツデに至っては、根こそぎ持っていかれた、きっと品不足でどこかに売ったんだ、とまで言う始末だった。ただ、ヤツデは、もう一本あってそちらは残っていた。地上十センチくらいのところでスパッと切られていて一枚の葉っぱも残っていなかったので、ほんとうにこれでいいのかという不安は残った。

このまま、桜は来年の春まで丸坊主なのだろうか、とわたしは思った。枝を切られ過ぎたかどうかは、来年にならなければ確認しようがないではないか。それとも、冬になって枯れたらわかるというのだろうか。それは最悪の結末だが、いずれにしても、しばらく様子を見る以外にはなすすべがない。このまま日々を過ごしていくなんて、はたしてできるのだろうか。

桜の枝が折れた話(5)|ながさごだいすけ|note

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