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桜の枝が折れた話(11)

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結局、どこでトーマスの蒸気機関車に乗ったのかを思い出すのに十日ほどかかり、それで少し気分は紛れたといえないこともないが、実際には、思い出せないフラストレーションで、よけいにうつうつとした日々を送ることになってしまったというほうが事実に近い。

庭木に話を戻すと、わたしが隣家の陰謀ではないかと疑った件に関しては、やはり考え過ぎだったようで、うちの庭に2mほどはみ出してきていたケヤキも、翌日、うちの方にはみ出している部分だけでなく、すでに2階の屋根より高く伸びていた枝をすべて、塀の高さまで切り揃えてしまった。だから陰謀ではないということにはならないものの、とりあえず、うちの庭木だけを目の敵にしていたわけではないようだ、ということだけはわかった。要するに、できるだけ刈り込んでほしいというのが隣家の御主人の希望だったのだろう、とわたしは思った。こういうとき、庭師の立場であれば、隣の家(つまりうち)の年寄りのいうことなどあまり真剣に受け取らずに、御主人の希望をできるかぎり実現しようとするだろう。そういうことだったのだ、と考えて、なんとなく腑に落ちた気がした。

母は、食事のときに、日当たりが良くなったことばかり言うようになった。わたしが、なにか他にもいいところを探さないといけないと思い、「少なくとも、これで嵐が来ても、お隣の窓を破壊することはなくなったよね。それが、一番の目的だったわけだから、安心したよね」というと、「そうそう、そうよね。台風が来ても大丈夫よね」と言ったが、なんとなく納得していないふうだった。だが、枝が折れたことで始まったこの一連の騒動は、まさしく熱海の土石流を起こした集中豪雨がきっかけだったことは間違いないわけだから、わたしの言っていることは間違っていないはずだった。

だが、依然として、桜の丸坊主感には変化がなかった。サカキも、毎日小鳥が入れ替わり立ち代わり来ていたのに、まったく来なくなっていた。日差しは相変わらず強く照り付け、レモンの木だけが毎日葉を増やしていった。

それが一週間ほど続いただろうか。ある日、ふと母が「やっぱり切り過ぎちゃったかしら」と言った。やっぱりそう思っていたんじゃないか、と思いながらわたしは、「まあ、ちょっとさっぱりはしたよね」と答えた。

「このまま枯れちゃうかしら」

「そんなことはないでしょ。最低限の葉っぱはついているし、切ったのは専門の庭師さんなんだから」

「でも、あの人、ヤツデは抜いてっちゃったし、アオキも切り過ぎてほとんど枯れかけてるじゃない。サカキも枝をみんな切っちゃって、ツワブキもつぶれちゃったし」

ツワブキは、隣家の塀の手前にあって、庭師の作業用に立てた脚立の下敷きにされてしまっていたのである。それは、初日に桜の剪定の準備をしていた時から母もわたしも気づいていた。言ったほうがいいんじゃないかとわたしは母に言ったが、どうも母は庭師の気分を害するようなことはしないほうが良いと判断したらしく、「いいの、だまってそのままにしておいて」と言って放置したのだった。だからツワブキについては明らかに母にも責任があった。

もっとも、庭に生えている植物の上に脚立をのせる庭師というのも確かにどうなんだろうという感じはした。

わたしの心に再び陰謀論が頭をもたげてきた。だが、その隣家の母屋からは実家の庭は全く見えず、そもそも陰謀をたくらむ理由がどこにもなかった。

桜の枝が折れた話(11)|ながさごだいすけ|note

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