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初めてのフェリー(11)娘さんの肩で

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スイスでは、ベルンに2泊し、一日かけてアルプスに登ることにしていた。ベルンからインターラーケンを経由して、余裕でユングフラウヨッホ(若い娘という意味のユングフラウの肩にあたる山なのでそう呼ばれる)の登山鉄道に乗って帰ってこられることは、トーマスクックで確認済みであった。

実はこれも母の影響だった。母は、スイス土産といってソフトボールを一回り大きくしたくらいのカウベルを買ってきたのだが、それはインターラーケンで乗り換えた時に買ったもので、本当はもっと大きなものを買いたかったが、スリにあった後でお金がなかった(お金は母が持っていて盗られなかったが、スイス往復の乗車券・特急券を盗られたので、結局同じことだった)から買えなかったのだ、と帰国後何度も聞かされていたのだった。

インターラーケンでローカル線に乗り換えて、カウベルを付けた牛がときどき見え隠れする、なだらかに起伏する緑の丘を抜けて着いたクライネシャイデックの駅は、文字通りこじんまりとした可愛らしい駅舎だった。と言っても、そこはもう標高2千メートルの高地で、そこからユングフラウヨッホ行きの登山電車が出るのである。登山電車といっても、箱根登山鉄道とは違って、すぐにトンネルに入ってしまうので、景色はそれほど楽しめない。もっとも、スイス・アルプスの田園風景は、インターラーケンからグリンデルヴァルトを経てクライネシャイデックにたどり着くまでの間に十分見ていた。むしろここからは、未体験ゾーンというか、アルプスの真夏でも雪が積もっている3,454メートルのユングフラウヨッホ駅へ岩山をくりぬいて作られたトンネルを抜けて行こうというわけなのだった。

ところが、駅について登山電車に乗り換えようとしたとき、問題が発覚した。終電しか残っていない、というのである。それがどうして問題なのかというと、終電は終着駅のユングフラウヨッホに着くと、10分ほどで下りの終電として出発しなければならない。ところが、ユングフラウヨッホ駅はまだトンネルの中であって、改札から10分以内ではとても外の景色が見えるところまで行って帰ってくることはできないということだった。

40年前のことで記憶に残っていないが、初めての海外旅行でもあり、計画自体は綿密に立てていたはずなので、おそらく当初の予定では、終電の少なくとも2本前には乗れるようにベルンを出る計画を立てていたのではないだろうか。だが、見知らぬ土地で電車を乗り換えるのは思った以上に大変で、終電に間に合っただけでも幸運だったのではないかと思う。あるいは休日か事故であるはずの終電が繰り上がったのだったのだろうか。

もちろん、駆け足でいけば、一瞬でも山の風景を見ることはできたかもしれないが、スイス人相手にそんなことを説明できる英語力は当時のわたしにはない。それに、その時間が最終電車ということは、それに合わせて施設も閉めていくだろう(その電車で帰る従業員だっているかもしれない)から、108メートルのエレベーターで展望台に仮に行けたとしても、そのまま外が見えずにそのエレベーターで下ってくる羽目になったかもしれなかった。

これを逃したらもう一生来られないかもしれないから、と言って頼み込んで、往復の登山電車には乗ることにしたので、駅の人も気の毒がっていろいろ調べてくれたが、山上のホテルに泊まるのでない限り、外に出るのは無理なようだということだった。クレジットカードすらもっていない貧乏学生だった当時のわたしにとって、突然ホテルに泊まるなんて、もちろん無理に決まっていた(今なら泊っただろう)。

終電でユングフラウヨッホに行く乗客は、わたしと妹の二人だけで、電車は完全に貸し切り状態だった。すぐにトンネルの中にはいってしまうので、景色を楽しむというわけにもいかない。車掌さんが、あれこれ説明してくれたが、英語なのでよくわからなかった。ただ、アイガー北壁駅に着いたとき、下り電車との待ち合わせで少しだけ停車時間があったので、車掌さんがわたしたちを、アイガー北壁の展望室まで連れて行ってくれたのがせめてもの慰めだった。

今に至るまで、ユングフラウヨッホの雪は見ていない。たぶん一生見ることはないだろう。もっとも、その後なんどかアルプスの雪に触れる機会はあったし、そのうち一度はスキーまでしたので、特に思い残すこともないのだった。

というわけで、予想以上に長くなってしまったが、これがわたしが初めてフェリーに乗った顛末である。実は、この後、ベルンからオランダ、ベルギーを経て、イギリスにわたるときにもう一度フェリーに乗ったところまで書くつもりでいたのだが、なぜかまったく思い出せない。オーステンドからドーバーに渡ったのではないかと思うのだが、まるで最初から存在しなかったかのように、完全に記憶から消去されてしまっているのである。書いているうちに少しくらい思い出すかと期待していたのだが、甘かったようだ。乗らなければ帰ってこられなかったのだから間違いない事実(のはず)なのだが。

この初めてのフェリー(往復)の次には、当然二度目のフェリー(往復)が来るはずで、もちろんそのつもりで書き始めたのだが、だいぶ長くなったこともあり、二度目のフェリーの話を書きだす気力は失せてしまった。三度目のフェリーの話はさらに書く気がしない。もともとは、その話を書く前置きのつもりだったんだけど。四度目は、宮崎から川崎まで、五度目は、リューベックからコペンハーゲンまでで、それらにまつわる話はいろいろあるが、フェリー自体に思い出はない。そして六度目が、ふたたびドーバーで、念願のフィッシュアンドチップスを食べることになるのである。ちなみにこの時のフェリーはドーバーからオーステンドまでの片道だった。このときは、ドーバー海峡のトンネルがすでにあったのに、ブリュッセルに行くためにわざわざフェリーに乗ったのである。まあ、どうでもいいことだが。

https://note.com/carenavi/n/n91be0e549f54

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