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明日のために

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日々の生活の中では気が付かない変化が積み重なって、ある日突然その変化に気づくことがある。

「生きていくのは大変です」という文章は、2年前にそれを書いたときには間違いなく、母に対するわたしの実感だった。ところが、新型コロナが蔓延しだしたのを機に、実家でテレワークをするようになり、週末だけでなく毎日顔を突き合わせるようになって、2年あまりが過ぎるうちに、わたしが地雷を踏まないように恐る恐る言葉を選んでいたあの日々はなんだったのかと思えるほど、母は穏やかになっていたのだった。

もちろん、わたしが週末だけでなく毎日母と暮らすようになったので、不用意な言葉を発しないように以前にもまして注意するようになったということもあるのだが、それ以上に母は昔のようには自己主張をしなくなったように思える。ボケた、ボケた、と自分で言うことが多くなり、最近ではそれすらいわなくなりつつあって、気が付いてみたら、ほんとうに昔とは違う穏やかな母になっていたような気がするのである。それは先週と比べて今週が、というレベルの違いではなくて、何年もの間に、いつのまにか起きていたというレベルの違いである。

そこにあるのは、認知機能の低下ということだけではないとは思う。母も、父が亡くなって独り暮らしになり、週末にわたしと妹が来る以外は、週の大半を一人で過ごしていたから、家を守る気持ちが強くなって、周りはみんな敵のように感じていたのだろう。とうぜん対応はとげとげしくなり、それが生活のすべてに出ていたとしてもおかしくない。だが、急にわたしと一緒に住むようになって、最初はコロナのことで怯えていたが、気持ちが次第に落ち着いてくると、今度はわたしとの共同生活を維持するために、妥協をする必要に迫られ、それでいつのまにか穏やかに日々を過ごすようになっていたということなのではないだろうか。

もっとも、これは現時点で過去を早送りでみているから、そう思うのであって、日々の生活の中では変化はわからないほど微妙なものである。いや、微妙というのとはちょっと違う。ある日、以前と違う対応があり、あれ? と思うことがあるが、翌日にはまた戻っている。それが次第に違う対応が増えてきて、ある日気が付くと…という、そんな感じだ。

コロナはまだ終息しそうになく、わたしも、まだしばらくは母と暮らさなければならないので、同じ過ちは繰り返さないようにしている。アパートの雨漏りはますますひどくなっているが、母はほったらかしで見にもいかないので、わたしも余計なことはしないでほったらかしである(チェックはしているが母には言わない)。昨年は台風の直撃がなかったので無事だったが、いつまでもほったらかしのままというわけにはいかないだろう。でもそれはまだ先の話である。

母との衝突はますます減り、穏やかな日々が続いている。困るのは、このエッセイに書くことがなくなったことくらいだが、母に怒られるよりはよほどましである。もっとも、母はわたしがこんな下らないものを書いていることはまったく知らず、実はそれが最大の地雷だったりして…

明日のために|ながさごだいすけ|note

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