高校時代、授業中は無言の行を実践していたわたしが、いちどだけ国語の時間に発言というか質問をしたことがあった。
それはまったくの偶然だった。教師は、産休の代替教員としてきたどこかの大学院に在学中の若い女の先生だった。普段はそもそも授業をまじめに聞いていないので質問などできるわけもなかったし、落ちこぼれであることは公然の事実だったので、他の先生なら、わたしが指名されることはありえなかった。だが、たぶんまだ若く経験も浅かった彼女は、それに気付かずに、わたしに発言を求めたのだった。
もちろん、わたしもいつもなら、「特にありません」と答えて、授業の流れを乱さないように気を使ったはずである。だが、その時は、虫の居所が悪かったのか、いや、むしろ良かったというべきなのか、どんな質問でもいいという彼女の問いかけに、今まで疑問に思っていたことを正直に話し始めたのだった。
だが、いざ質問することを決心したとはいえ、その質問は、わたしの心の中にわだかまっていたとはいうものの、そんな明確な疑問として固まっていたものではなかったし、当然のこと他人に聞いてみようと思ったこともなかったから、質問のかたちですらすら口をついて出てくるようなものではなかった。必然的に、「あー」とか「うー」とか言いながら、とぎれとぎれに単語が出てきて、それを補いつつ、また新しい言葉が見つかる、という風に、しどろもどろでまだるっこしい、自分でも嫌になるくらい要領を得ないものになってしまったのだった。
わたしは、学区ではトップクラスの進学校にいたので、経験のある教師であれば、おそらく最初の1分で中止を求められ、話はそれきりになったはずである。大学受験を控えた三年の大事な時期に、まったく重要性がないどころか、そもそも質問の趣旨さえはっきりしない発言に何分間も費やすなど、正気の沙汰とも思えない行為で、明らかに成績上位の生徒への嫌がらせととらえられかねない行為だったからである。わたし自身もそのことは充分にわかっていたが、未経験な若い女教師が、発言を遮らないので、話を終わらせるタイミングを完全に逸してしまって、最後まで話し続ける以外になかった。実のところ、途中で「やっぱりうまく言えません」と言って止めてしまうこともできたはずだが、そこが不思議というか教師の未熟さというか、あるいは逆に老練さだったのかもしれないと今では思うが、彼女はわたしの発言を辛抱強く待ち、行き詰りかけると少し言葉を補って続きを促すようにしたので、止めることができなかったのである。
わたしの発言がひどく要領を得ないギクシャクしたものになってしまったのには別の事情もあった。その質問は、わたしにとっては、これ以上ないくらいまじめなものだったが、まじめなものというには少々微妙で、少なくとも当時の国語の教科書では触れられないような事柄でもあり、正直な話、わたしは人前でそんな話をするのはかなり恥ずかしかったのである。実は今ここで書くことにもためらいがあるが、すでに前回、文芸部誌の一件で、赤っ恥をさらした後でもあり、現在の社会通念からすると特に違和感のある問題でもない(というより、むしろより積極的に発言してもおかしくない)ので、書いてしまうことにする。
あれから四十六年が過ぎた。若い女の先生は与那覇先生という沖縄出身の先生だった。いつも人名はプライバシーを配慮して変えることにしているが、これは本名である(と記憶している)。沖縄が返還されてからまだあまりたっていなかったこともあり、わたしが初めて出会った沖縄出身者だった。小柄だが沖縄県人に特徴的な彫りの深い二重のギョロっとした眼が印象的な先生だった。色黒で快活な、ある意味、沖縄のイメージそのままの女性で、授業にも張りがあり、いつも笑顔で講義をしている印象があった。専任の教師たちがおしなべて、苦虫を嚙み潰したような表情で黙々と授業をしていたのと対照的だった。進学校で授業のスピードが速く難易度も高かったから、それは当然のことであり、むしろ与那覇先生には、代替教員としてのあるいは大学院生としての気楽さがそこにはあったのだと思う。だからこそわたしは質問してみようという気にもなったのである。
今となっては、むしろこんな質問に逡巡したのか、という逆の意味で恥ずかしいくらいのものである。その質問とは、こんなものだった。
「女性の本当の気持ちは男性にはわからないから、古今東西の男性作家による女性の登場人物の描写はすべて真実ではない、というのは事実であるか? 事実であるとすれば、どうしてその中に偉大な世界文学の傑作というものが存在しえるのか? それらは、男性中心主義的世界観においてのみ傑作なのであって、女性はいつも嘘だと思いながらそれらを読んでいるだけなのか?」
ざっと、こんな感じ。一言でいえば、「男が書いた女性はぜんぶ嘘なの?」ということである。じゃあ、逆もまた真なりなのか、ということになるが、わたしは男性なので「女が書いた男性がぜんぶ嘘である」ことは実感としてわかるから、それはわたしにとってはどうでもいいことなのだった。ただ、極めて稀だが、絶対に女性が書いているはずなのに、男性が書いたとしか思えない男性が出てくることもあり、女性の場合にもそれは可能なのか、だとしたらどうやって可能なのかを知りたかった。実のところ、わたしは、自分で小説というものを書いてみて、女性を書くことの難しさを実感していたのだった。
もっとも、わたしの個人的な感想だけで、こんな質問を始めたわけでは、いくら何でも、なかった。そのころ読んだ何人かの女性の作品に、同じようなことが書かれていて、わが意を得たりという気になったのが、直接の引き金だったと言って良い。
ちなみに、その作品のひとつは、女性の内面を赤裸々に描いてベストセラーになったエリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』だった。
実は、最近書庫を家探ししていて新潮文庫の『飛ぶのが怖い』を偶然見つけ、なつかしさのあまり思わず再読したのだが、読めば読むほど、当時はちゃんと読んでいなかったという実感が増して困惑してしまった。とはいえ、男性の書く女性描写のおかしさについては、間違いなく書かれていたので安心した。ただ、なにか根本的なところで記憶が捏造されていたらしく、わたしはとんでもない間違いに気づいたのだった。
次回はそのことを書くつもりである。