ハイデルベルク行のトランクに詰めた三冊の文庫本の最後の一冊は、モンテーニュの『エセー(五)』だった。
岩波文庫の『エセー』を見つけた日のことはよく覚えている。それは1977年4月のことだった。大学の教養のキャンパスが習志野にあり、家からは通えないので、生まれて初めて一人暮らしをすることになった。賄い付きの学生寮で大学の近くにあった。最寄り駅は北習志野駅だった。
当時のわたしは、毎日書店に行くのが習慣だったので、引っ越した日だったか翌日だったかは忘れたが、まっさきに駅から歩いてくる途中で見つけた少し大きめの書店に出かけた。その年は、岩波文庫創刊50年にあたっていて、フェアをやっていた。それで『エセー』も平積みになっていたのだった。北習志野には理科系の学部しかなかったから、そんなことでもなければ、『エセー』が平積みになることなんてありえなかっただろう。
それまで、カントやらニーチェやら哲学関係の文庫を読んではいたものの、モンテーニュのことはまったく視野に入っていなかった。というのも、今でもそうだが、モンテーニュは岩波の赤帯だったのである。
赤帯といえば外国文学であってゲーテやシェイクスピアが入るところであり、カントやニーチェのような哲学は青帯、マルクスやウェーバーのような経済学・社会学は白帯と決まっていた。
だから、書店で平積みされていなければ、モンテーニュに出会うのはもっとずっと後だったかもしれないのだが、わたしにとっては、これはまさしく運命の出会いになったのである。以来、岩波文庫創刊90年の今に至るまでの40年間、『エセー』は常に手元にあった。そんな本は他にはない。
というわけで、ドイツに行くときにも『エセー』を持っていくことは最初から既定事項であった。ただ、全部持っていくとなると六分冊もあってかなり重い。どうするかはかなり迷ったが、結局、もっとも円熟した時期に書かれた原著の第三巻前半にあたる第五分冊だけを持っていくことにしたのだった。
できれば、滞欧中に、モンテーニュ詣でをしたいとも思ったが、その願いはかなわなかった。
持っていった三冊の文庫本に関係のある場所で、実際に詣でることができたのは、結果的にドナウエッシンゲンのみとなった。